『新釈現代文』が大学受験「現代文」の"古典"ならば
『新釈現代文』が大学受験「現代文」の"古典"ならば、今はどうなの
と思って調べてみた。
「教養としての大学受験国語」 「大学受験のための小説講義」
というものが引っかかってきた。
どちらも「ちくま新書」で、著者は石原 千秋さんという近代文学研究者
なんと「新釈現代文」の著者 高田瑞穂さんの教え子とのこと
さもありなんと思わせる著書である。
大学受験における現代文、一言で言えば
出題者がどんな回答を求めているのかは問題をよく読めばわかる
というものらしい。
極端な話、選択問題であれば、出題文なんか読まなくても、選択肢は自ずと絞り込める。
なるほど、そういうものなのだろう。
確かに数学の問題だって出題者はどんな公式を使って回答して欲しいのかが解れば勝ったようなものだと思って臨んでいた。
評論は確かにそうだろう。しかし石原さんの本には小説の出題は難しいようなことが書いてある。
だから大学受験現代文に小説を出題する大学は限られてくるらしい。その大半はセンター入試か国公立二次試験、ということらしい。
そして、お決まりの「主人公は其の時何を考えたか」みたいな設問となる。
問題文に採用される小説であれば、概ね文章をよく読めば、出題者がどんな回答を期待しているのか解るものらしい。
そう、出題者が!である。
決して小説の作者が、では無いのである。
そうでない小説は入試問題には不適切なのだということだ。
そう考えると、僕が書いているような小説は絶対に入試問題に採用できない。
だって、主人公の想いなんてあからさまに書いてないから。前後関係読んだって絶対解らない。読み手が自由に考えて欲しいと思って書いているのだから。
愛明は小説の最後に、佑子からの手紙を読んで青空を見上げる。
其の時愛明は何を想っているのか?
そんなものは小説を読んだ人が、自分の青春時代の恋愛を思い起こして、勝手に想像してくれてかまわない、愛明の気持ちになったとしても、そのときの想いは決まったものではない。読んだ人が勝手にそれぞれのシーンをあてはめて、「俺が愛明なら、こんな想いで空を見上げるよなぁ」って自由に味わって欲しいと考えている。
僕は子供のころから、そういうふうに小説を味わってきた。だから試験問題でも自分だったらこう考える、そういう考えで解答してきた。点が取れないわけである。
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